(会報58号から抜粋)
会長に伊藤博夫氏を選任
山中・山東東京同窓会の前身となった「千歳会」の新年会が、1 月30 日、プレスセンターのレストラン「アラスカ」で行われました。
会議には20 名の会員が参加し、大内恒夫(山中52 回)氏から伊藤博夫(山東3 回=写真)氏への会長交替と併せ、今後の運営については、ゴルフと親睦を軸にした活動を進めてゆくことなどが確認されました 。
「千歳会」は、在京の山中出身者有志によって大正15 年に発足したもので、戦後になって昭和25 年に「山形中学東京同窓会」が発足してからも、懇親や情報交換の場として継続しており、近年ではゴルフを中心にした活動が行われてきたものです。
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伊藤新会長の話
私がゴルフがきっかけで千歳会に入会してから40 年ほどになります。年2回集まってゴルフを楽しみ、酒を飲みながら天下国家を論じてまいりました。諸般の事情から従来の千歳会は開催が難しくなりました。そこでゴルフ会の会長である私が千歳会の会長を兼ねることになりました。千歳会は山中卒業生から山東の比較的若い卒業生までの縦の繋がりの中での活動が大きな特徴です。私たちと一緒に『来たるを続けて遠きに至り』ましょう。ご加入をお待ちいたします。
[千歳会の歴史]
「千歳会」については、これまで会報等で何度か取り上げられていますが、今回の動きを踏まえ、発足時のいきさつや現在の「山中・山東東京同窓会」に繋がる経緯などについて、佐藤友光顧問(第7代東京同窓会長、現・安達峰一郎記念財団常務理事・山中54回=写真)に以下の話を伺いました。(まとめ:編集局)
錚々たる顔触れで発足1926(大正15)年
安達峰一郎(山中1 回・常設国際司法裁判所長)の遺品の中にあった資料によると、千歳会の第一回会合は大正15 年11 月25 日、“明治卒”の在京同窓生有志が集まって開催されました。会場になった新橋「花月」は当時の超一流の料亭で、酒田松山町出身の女中頭(鈴木よねさん)の存在もあって、同窓の先輩たちの会合の場となっていたようです。
その発足総会には、松田貞次郎(山中8 回・東京鋼材社長)、結城豊太郎(山中9 回・大蔵大臣/日銀総裁)、小磯国昭(山中12 回・陸軍大将/総理大臣)各氏ら政財界で活躍する先輩たち17 名が参加しています。
昭和4 年3 月、芝浦雅叙園で第5 回会合(参加者30 名、会員数59 名)が行われました。以後、戦時を含む20 年間の資料はきわめて乏しいのですが、昭和5 年6 月に駐フランス大使であった安達峰一郎氏が一時帰国した際、歓迎会を企画した記録があるほか、昭和12 年4 月に、結城豊太郎氏の大蔵大臣就任祝いが開催されるなど、戦争中は別として、折々に有志による集まりは続いていたのではないでしょうか。
山中東京同窓会旗揚げ1950(昭和25)年
戦後になって、「山形中学校東京同窓会」が昭和25 年に発足しました。発起人会は新橋「花蝶」で、第1回総会は目黒「雅叙園」で開かれ、総会参加者は60 名となっています。初代会長は千歳会でも活躍された松田通世氏(山中26 回・現在の昭和海運社長)で、千歳会の交流の中から東京同窓会が誕生した様子がうかがわれます。
一方、千歳会の動きは戦後しばらくはっきりしませんが、「花月」から独立した鈴木よねさんが女将をつとめる料亭「花蝶」を舞台に、戦前と同様、新年会や忘年会、暑気払いなど有志の交流が続いていたものと思われます。「総会を軸にした同窓会」(主な会場は都道府県会館)と「懇親を主とする千歳会」と言えるのではと思います。
なお、「花蝶」には、鈴木久典氏(山中46 回・第6 代東京同窓会長、)が養子に入られたという背景もあり、会との関係は一段と親密になり、「花蝶」が閉店する平成15 年ごろまで続きました。
マナー重んじ人間形成1962(昭和37)年
千歳会ではゴルフもよく行われていましたが、それはマナーやエチケットを磨き、紳士であることを重視するものでした。昭和37 年に第一回大会が行われ、昭和52 年の16 回までは年に1回でしたが、昭和57 年からは年2 回の開催になり、現在に続いています。
一方、五十嵐光男(山中49 回)氏の基金をもとに、母校に「千歳会文化賞」が設けられ、現在の「駒草杯」など在校生表彰制度に活かされています。
平成19 年4 月、鈴木久典氏の逝去により、千歳会のいわゆる“「花蝶」を舞台とした懇親会”は終わり、新たな途に踏み出すこととなりました。歴史の変遷を感じるところです。ご協力のほどぜひともよろしくお願いいたします。
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