2008年12月13日土曜日

戦没した同窓を偲びつつ・・・(鴻志会)

>会報32号(平成8年10月)より抜粋 

去る五月十日(金)、鴻志会全国大会を渡邊弘道幹事の尽力で宮城県松島海岸のホテル大観荘で開催した。

幸い天候にも恵まれ、高台にあるホテルから眺める新緑の松島湾は素晴らしく、一同、大いに満足した。

我々が山形中学に入学したのは昭和九年で、丁度創立五十周年の年だった。以来、既に六十二年が経過し、童顔だった少年たちもいまや齢七十有余を数え、会員も年々減少している。

同期には戦没者が多く、大東亜戦争勃発と同時に真珠湾攻撃に参加して戦死した者をはじめ、アッツ島の玉砕者や、また特に南方各地での戦死者だけでも二十数名にものぼる。歓談のうちにも必ず戦死した学友の名が出てきて、思い出話に花が咲き、生きていることの有り難さを思いつつ、和やかに酒を酌み交わし、肩を組み、「羽前の三山」を斉唱して散会するのが通例となっている。生きている者として、これが若くして逝った学友への何よりの供養だと思う。

遡るが、昨年の五月には東京近郊在住者が主となり、関西、山形、仙台からの参加者を得て、千葉県天津小湊で太平洋の荒波を眺めての集いがあった。来年は喜寿の祝いを受けられる由、これからも元気に楽しい会を続けていきたい。

今回の出席者は二十四名で、そのうち東京鴻志会からの出席者は次の五名である。奥山宗弘、小嶋誠太郎、西山栄一、山岸勘六、阿部吉夫。


(阿部 吉夫記) 

山中青雲会卒業60周年記念-出羽三山参拝の記 (青雲会)

>会報47号(平成15年10月)より抜粋 

平成13年10月、山中・東高同窓会総会で青雲会55名が喜寿のお祝いを戴きました。その折、卒業60年の会で青雲会の締め括りにしよう、と約束がなされた。それを受けて山形の学友が、平成15年6月5/6日、温海温泉と羽前三山参拝との旅を企画した。

前年11月の参加希望者は40名であったが、当日の参加者は33名で、内3名はご夫人であった。山形17名、東京11名、仙台・福島・京都の参加でした。

山形駅前を13時30分に貸切バスで庄内に向け出発した。当日は梅雨の季節iこは珍しく快晴でした。かつての難所は、長いトンネルと橋で繋がり、寒河江ダム・月山湖をi眺めつつ日本海へ出る。 
快晴に 薫風さやか 海は凪ぎ 月山鳥海 共に迎えし
   庄内へ 難所開きし 新道を 緑風の中 三山を越ゆ

大山の善宝寺に参拝。全国から百万人もの参詣人のある名刹に、10名余の僧の供養を受ける。 
万巻の 開経供養す 善宝寺 戦に散りし 学友安かれと

穏やかな日本海を眺めつつ、湯野浜、加茂、由良の海岸を経て、温海温泉の「たちばなや」に入る。由緒ある新装の素敵な部屋に憩い、温泉に浴す。 
   たちばなや 匂うが如き 良き宿に 謳い語りて 一夜を明かしつ
   木漏れ日が 一筋湯屋に 差し入りて 透明豊かな 湯に浸りけり

19時大広間に集合し、物故学友の冥福を祈り開宴。思い出を語り、美味を食し、酒を酌む、かつて校庭に流されていた藤村の「椰子の実」の歌と校歌を合唱する。
   校庭に 流され聞きし 流離の憂い 共に謳えば 青春還る
   業終えて 六十年の記念祭 共に謳わん 羽前の三山

翌6日も快晴。早朝風呂に入り、朝市を覗き、朝食。9時出発。羽黒山に向かう。真っ赤な大鳥居を潜り、参道を登り、駐車揚に入る。徒歩10分で芭蕉の銅像と三山の句碑を見て三神合祭殿に入る。全員神前に座して祝詞をうけ、家内安全・平安長寿を祈る。 
豪快な 大茅葺の 神殿に 金鈴鳴りて 平安祈る
蕉翁も 訪ね来たりて 涼しさや ほの三日月の 羽黒山と吟ず

さらに山中を深く登り、注連寺に鉄門海上人を拝す。
   山深く 豪雪に耐え 即身の 仏を祀る 寺に詣でる

湯殿山に登る。小型バスに乗り換えて10分、神域に入る,石敷きの道を登り、降りして15分、裸足になりお祓いを受ける。
  形代を 流し清めて 裸足にて 湧き湯流るる 神体渡る
   語られぬ 湧き湯に濡れる ご神体 踏みつつ祈る 家内安全
   残雪の 僅かに残る 湯殿山 白き辛夷,の 咲き誇りける
   全員で 良くぞ参りし 出羽三山 八十近き 青年健在

三山をあとに車は月山の麓を巡り、15時、間沢の出羽屋に入り、盛大な解散パーテーを開く。
   三山を 拝し終わりて 山莱の 名物料理に 別杯を酌む
   激動の 六十余年の 友情の 熱き思いの いよいよ深まる
   この思い 誰が計りし 深きより 滲み出でくる 友懐かしき
   善き旅を 作り賜わる 嬉しさを 何に例えん 唯有難き


 今回の信仰の山をめぐる記念の会は、私たちの心に深い感銘と、友との絆を深める旅になりました。心より感謝いたします。

■山形の友から
今日晴渡る壁瑠璃の、陽射しの光を身にあびて、虚空を凌ぐ出羽三山を近くにすると、霊ある呼吸が我胸を充たした。山中卒60周年記念の旅、山の緑、海の青に深呼吸をし、昔を偲び、80歳にならんとする足を労わりながら歩き、坂を登り頭を垂れて神仏に謝し、何卒これからも宜しくとお祈り申し上げた。

夜ともなれば浴し、食らい,語り合い、時の経過を知らなかった。わが青春の友よ!山形の蕎麦の如く愛され長く生きられよ。本当に有難うございました。
(阿部 圓 記) 

喜寿を迎える東京銀河会「梅香のつどい」 (銀河会)

     >会報48号(平成16年6月)より抜粋 
-奥湯河原・海石榴(つばき)にて-

今年10月に山形で行われる喜寿祝賀表彰式に、私たち銀河会員の心は期待感に満ち、東京でもこの表彰式を成功させるために折を見ては集まりをもちました。

たとえば、昨年7月7日には銀座7丁目「ライオンビヤホール」で東京銀河会`あさがおの会'
がありました。東京銀河会会長会田正さんの企画、命名によるものでしたが、山形から銀河会幹事の方々も参加されて、お土産に持参いただいた桜桃と漬物のご相伴にあずかって、ビヤホールの従業員が大喜びをしていたとの思わぬ一幕もあったりしながら、楽しく飲み語らい、喜寿祝賀会には揃って出席することを約束したのでした。

そして、この春の`梅香のつどい'です。あさがおの会の名を追っての命名で、企画は会田会長と中川顕助さんとによるものでした。

会長からの誘いの文章には、「喜寿まで生きたのだから一生に一度の贅沢をしてもらいたく、会場は高級割烹旅館を選んだので、共に心おきなく語り明かしたい」とあって、文末に余分の経費は会長の負担にさせてほしいとさりげなく書いてあるのでした。

私たち銀河会会員の山中時代の生活は、太平洋戦争のまっただなかで終始しました。在学中に学制が変わったり、軍関係の学校からの復学があったりで、卒業年度が異なってしまった人達もでてきました。同窓会名簿上での幾人かは同一人が2度も3度も卒業したことになっている例も生じ、そのような不都合を正すべく普通ならば、卒業年度で呼ばれるところを、入学年度を基準として入学が昭和16年の者が銀河会員であるとあらためて確認することにもなったのでした。

戦後のこのような複雑な事情もありながら、銀河会の活動はある時期を経て、年毎にまとまりを固くしてきているのは、山形や仙台の幹事と東京銀河会会長と変わらぬ努力と熱意があったからでした。お蔭で、喜寿表彰式に向かっての打合せなども円滑に持たれるようにもなっているのです。

しかし、それにしても`梅香のつどい'を海石榴で開こうとの誘いにはびっくりしてしまいました。海石榴という旅館を私は知りませんでしたが、聞けば、東京・大阪のそれも有名人が泊まる超一流の旅館だというではありませんか。

参加人員は、山形・仙台・東京から合計16名。期日は'04年2月23日(月)~24日。22日の夜から23日の未明にかけて嵐のような天候で、山形も同様だったそうですが、23日の夜明けはどちらも雲ひとつない日本晴れの空になっていました。

海石榴の建物は深い木立に囲まれて道路からは見えません。豪華というのとは違って、純和風の気品ある邸宅のような造りです。部屋は迎賓館と名づけられ私たちの借り切り、そのうえ各部屋とも、それぞれ貴賓室になっているのにもおどろくばかりでした。

入浴や休息を取って、懇談の会との予定でしたが、到着してロビーに入るや否や先に着いている同窓生につかまって、あいさつの交換や質問攻めなど、最近会った者も永く会わなかった者も、まるで中学時代の科目試験が終わったときのような活気ある明るい雰囲気でした。一生懸命に語り合っている間を、さりげなくお茶とおしぼりをすすめにくる女性スタッフたちの接遇のよさに、一層心和んでいたのかもしれませんが。 


どうやら入浴も済まして、4時40分から5時50分を講座的談話の時間として会長の挨拶と各人の話になったのですが、さすが75年の人生を生き抜いてきただけあって味わい深い話が続きました。生きる社会は異なっても、生きる努力や誠実さが聞く人の心に響いてくるのは、貴重な青春時代を共に過ごしてきたことから生まれた信頼や理解を持合っている者同士だったからに違いありません。

話は堅苦しいものではありませんでしたし、その場の空気も窮屈なものではありませんでしたが、「教室でもこんなにまじめに聴いたことはなかったな」と感想が漏れたほど充実した時間でした。

一夕の宴会ではもちろんのこと、宿泊のときでさえ、食事や宴会の前にこのような実のあるときを過ごしたことは今まで一度もありませんでしたので感銘もひとしおのものがありました。

宴会は部屋を変えて6時から8時半までで、それでも感興は尽きませんでした、,物故者へ黙祷を捧げ、山中の校歌、応援歌を合唱のあと、民謡も出たのは、望郷の想いや愛郷の心が自然に湧き出たのだったでしょうか。

希望する人、飲み足りない人、疲れを知らぬ人などの二次会は12時まで続いていました。朝の食事を済まして9時解散となりましたが、用事を控えてすぐに帰宅した人も、湯河原梅林を見たり、十国峠から富士山を眺めたり、熱海梅園を訪ねたりしてから帰るというグループもありましたが、海石榴で過ごした時間に名残を惜しむ様子はみんなに感じられました。「会長、今度は卒寿の祝賀をやってよ」といって玄関を去る友人もいました。

喜寿といっても特別の意義を認めない人もいるかも知れませんが、古い友達同士は互いに勇気を与え合うもののようです。

`梅香のつどい'は10月に向けて私たちの結びつきを強めてくれたばかりでなく、77歳を越えた将来の人生にさえも、中学時代に抱いていた熱い希望とは違った、穏やかな希望を醸し出してくれる機会を与えてくれたのでした。
(安斎 登 記)

山中六一会東京部会の動向について (六一会)

>会報43号(平成13年9月)より抜粋 

東京を中心とした周辺各県に居住している同期生は、名簿上現在57名いる。
昭和57年以来年2回(6月と12月)定例会を休むことなく今日まで開催してきている。57~59年頃は毎月第3木曜口に有志による会合を開いたり、又年1回の一泊旅行などを4~5年続けたことがあった。

年2回の定例会には山形から出席者もおり代表として幹車長の志村君が毎回出席してくれており、山形における経過報告などを得て旧交を暖めている。

山形を離れて当地に居を構えて4~50年ぐらいにはなるだろうか、この間幽明境を異にした同期生は、17名を数える。ご冥福を祈る次第である。

いまや古稀を過ぎてもお元気で現役で働いている人も多数存在している。同期会に出席しているメンバーは殆ど常連である。毎回案内状を送っても返事のない人やあっても出席しない人が最近増えている。

同期生の集りがスムーズに年2回できるようになったのは、齢50歳を過ぎてからが本音である。,小生自身40歳台では案内を貰っても、現役でサラリーマンとして仕事中心に働いていた者にとっては、全く無関心と云うか出席できなかった。時間的余裕がなかったことは事実である。徐々に加齢することにより旧友と会って若い頃の話をして見たいと云うことが出席のいとぐちであった。

わが東京六一会の同期生が長期に亘り集りが良いのは、山中で学んでいた頃に遠因があったのではないかと思っている。

在学中は戦時色濃厚で、学徒勤労動員と称し、授業の代りに農家の手伝い、山野の開墾の出動、神町飛行場建設の応援のため東根温泉の旅館に数ヵ月間起居を共にしたり、一緒に苦楽を分ち合ったことが懐かしく思い出されている。これらの共通の経験があったことが貴重な絆となっていると思っている。

昨年11月、松田尭君が勲二等瑞宝賞の叙勲の栄に浴したことは、まことにおめでたいことであった。同期の中からささやかながらお祝いの会を持ちたいと誘うたが固辞されて今日に至っている。今年6月の定例会において真似事をすることで本人の了解を得たところである。

本年2月の山形県知事選挙において高橋和雄君が目出度く三選を果した。二期8年間の実績を評価されたものと喜んでいる。高橋知事誕生のため我々同期生が中心となって物心両面からの応援と団結の賜物と感謝している。

21世紀の門出に当たり、これからも我々は、お互いに健康に留意しながら、各人の責任においてまだまだやるべきものが多いものと確信している。


(鏡 敏麿 5月記) 

斎藤俊平氏叙勲祝兼ね `06東京ふたば会総会

>会報53号(平成18年10月)より抜粋 

ふたば会は昭和19年に旧制山形中学校に入学した同期会である。通常、同期会は"○○年卒業"というものだが、ふたば会は入学は同じでも卒業は二手に分かれた同期会である。中学2年のとき終戦になり、その後の学制改革によって、旧制最後の山中卒業生として5年で卒業の人、新制山形一高(現在の山形東高校)3年で卒業の人と分かれた。"ふたば会"という名前の由来もそこからきており、ひらがなの同期会名は120年を越える母校の歴史の中でも極めて珍しい命名である。

さて、ことしの東京ふたば総会は6月6日、アルカディア市ヶ谷(私学会館)で開催され、出席者は21名であった。校歌を斉唱する時、鮮やかに青春時代が蘇るのは同期会ならではであろう。

総会の議事・懇親は別としてトピックスを記そう。ひとつは、斎藤俊平君が春の叙勲の栄に浴したことである。さいたま県庁で政策審議室長など要職を担って尽力されたことに対してである。東京ふたば会としても気持ちばかりのお祝いの品を拍手で贈呈した。

次に、来年は数えで77歳(喜寿)となり、母校で表彰される予定なので、元気で皆で参加しようと大いに盛り上がった。その際、銀メダルが授与されるそうだが、メダルは辞退し、その費用は途上国の教育に役立ててはどうかなどと活発な意見も出された。

なお、ふたば会では、東京と山形の有志で年2回ゴルフ対抗戦をやっている。次回は、9月15日蔵王CCで、春に敗退した東京ふたば会の雪辱戦となる。

(小笠原文男 記) 

 にぎやかな東京ふたば会(山中62回・一高2回)

>会報47号(平成15年10月)より抜粋 

最初に「ふたぱ会」を紹介しておきたい。ふたば会は昭和19年に入学した同期生で、現在の山中・東高同窓会会長の橋本栄一君も仲間である。

われわれ同期生は戦後の学制改革に直面し、山中から新制の一高(現在の東高)まで6年間在籍した人が多いのだが、旧制の山中のまま5年で卒業したり、4年から旧制の山形高等学校に中途進学した、いわゆる山中しか在籍しなかった人もいることから、ふたば会という名前になった。このひらがなの会名は東高同窓会では非常に珍しい。

山中に入学したものの、翌年夏の終戦までは勤労動員で、田植え、稲刈り、開墾と、勉強そっちのけで苦労し、戦後は食べ盛りなのに食糧難でひもじい思いをした。こうした苦難・困難を共にしたせいか、ふたば会はまとまりが良いといわれている。


われわれは修学旅行を経験していない。戦後のどさくさで修学旅行どころではなかったのである。そこで昭和60年、箱根に渡里義廣先生を訪ねる旅の会が契機となって、国内は京都、金沢、鬼怒川、花巻など総会を兼ねて、海外はタイ、アメリカなどへ"修学旅行"を行っている。今秋は立山黒部アルペンルートを抜ける旅が計画されている。こうした旅行の際は現地に滞在している同期生佐藤喜一君や田村實君、塩野操君らの家族ぐるみの協力があって、大変楽しい旅行になっている。

ふたぱ会で特筆すべきことは、昭和62年の"青春プロムナード"と昨年の古稀を記念した"プロムナードⅡ"の二冊を出版したことである。62年のときはそれぞれが当時の思い出や、とっておきのエピソードなど、昨年は古希ということで思い出のほか、生活の現況、趣味の成果など自由に書き記したものを出版した。最初のプロムナードにはご高齢にもかかわらず、渡里先生をはじめたくさんの恩師の方々からも寄稿いただいており、昨年のプロムナードにも軽部晋四郎先生からお祝いの言葉をいただいた。こういうことができたのも橋本君をはじめとして布施定男君ら山形在住の編集委員の献身的な努力のおかげである。

また、山形と東京ふたば会の一流の(?)ゴルファーが集まって年に一度コンペをやっている。
いつもは塩野君のお世話で宇都宮近辺でやるのだが、今年は6月に佐藤孝男君のお世話で齊藤俊平君の造った山形ゴルフ倶楽部でプレイした。スコアはともかくとして、その夜は孝男君がわざわざ採ってきてくれた山菜に舌つづみを打ち、石川浩道君が家族ぐるみでお付き合いのきれいどころ3人も入れて大いに盛り上がった。

さて、東京ふたば会であるが、東京近辺に住んでいる約90人が"東京ふたば会"として、年に一度は会合をもつことにしている。今年の東京ふたば会総会は5月に新宿で開催したが、既に33回を数える。出席者は以前ほどではないが、それでも20名ほどが顔を合わせる。欠席の人も40人近くが近況を書きしるしてくるので、仲間の消息を知り得る貴重な情報となっている。出席者の中には、関西からいつも駆けつけてくれる田村實君や、今回は秋の旅行に備えて富山からわざわざ上京してくれた佐藤喜一君も加わり、いっそうにぎやかな会合になった。

会合では物故者に対する黙祷、校歌斉唱、挨拶、乾杯、懇親と続き、応援歌でお開きになるのだが、今回は会場の都合で校歌、応援歌の斉唱ができなかったのは残念であった。

懇親に入ると、あたかも10年ぶりに会ったかのような賑やかさで、よく聞いてみると健康の話、同期生の消息、ゴルフの腕自慢、旅行の話などなど話題はとどまることがない。学生時代の思い出ぱなしは先生に叱られた話ばかりで大笑いになるのだが、なぜか褒められた話は話題にならない。褒められることが稀有だったのかもしれない。アルコールが入ると、なお一層ボルテージが上がり、昼だというのにその飲みっぷりは若い頃と変わらない。会費のことなど念頭にないようだ。

こうして時間も会費もオーバーした”めちゃ楽しい”ふたば会の会合はお開きになるのだが、歳のせいで年に・人二人と言ト報を聞くようになった。それだからこそ、こうした同期生の会合は一層価値があるのかもしれない。

ちなみに、東京ふたぱ会の幹事長役は、山中・東高東京同窓会50周年記念式で功労者表彰を受けた栗林恒雄君で、その面倒見の良さは余人をもって変えがたいほどである。

追 記
この原稿を事務局に送るべく準備をしていたところ、栗林君が急逝されたとの報に接しました。ここに哀悼の意を表するとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
(小笠原文男 記) 

楽しみな"東一会の歌" (東一会)

>会報54号(平成19年6月)より抜粋 
高下駄の旗のもとに集合


東京東一会総会は、長い間毎年10月1日に、上野文化センターを会場として開催されてきたが、突然の閉鎖により変更を余儀なくされた。日付は10月28日に、会場も新宿スエヒロに変更されたので心配されたが、24名の出席者であった。遠方からは中川徳次郎君が大津から久し振りに駆けつけてくれた。会は、千布英彦君の名司会により進められ、75の声を聞く青年(?)たちが意気大いに上がる。

われわれは、本部東一会から、同期の三浦章君がタカゲタをデザインした会旗を預かっており、総会会場に掲げることにしている。その前で記念写真を撮り、校歌・応援歌を高らかに歌うのである。最高の気分である。

本部東一会からの連絡で、新たに"戦後61年東一会の歌"が、同期の目野本彦作詞、藤沢浮作曲で誕生したとのこと。次回にはお目に(お耳に)かかり、歌いたいと思っている。


  (佐藤晃央 記) 


回を重ねた楽しい集い 東友会55周年/東京三金会300回

 >会報56号(平成20年5月)より抜粋 

平成19年は東友会(入学は昭和21年4月、卒業は同27年3月)にとってイベントの多い年でありました。

まずは、毎月第3金曜日の三金会(根津・ステーキ鉄兵)、3月27日の東京東友会東校舎例会(麹町・スクワール)、4月20日の三金会300回記念(鉄兵)、4月25日の卒業55周年の集い(山形・ホテルキャッスル)、11月2日の三金会芋煮会(鉄兵)等、賑わしい一年でした。

特に卒業55 周年の集いでは、山形、仙台、東京各地区から58名(うち東京地区は10名)の参加があり盛会でした。中には卒業以来初めて逢う人たちもおり、懐かしい母校での思い出話に花を咲かせたり、また、若い山形舞妓の皆さんの舞踏鑑賞で華やいだ気分になったものです。さらに同日午後、市内観光、天童ゴルフコースでのプレイなど充実した一日でした。今回の集いを企画担当された山形地区の幹事諸氏に感謝とお礼を申します。

三金会300回記念には10名の参加があり、山形弁で語り合い笑い転げながら大いに盛り上がり楽しいひとときを過ごしました。また、会場のお店との関連で酒田の初孫酒造本店営業部から清酒3本、出席者全員に中ビン1本のプレゼントがあり、記念撮影も加わって300回にふさわしい宴となりました。それにしても300回もよく続いたものだと一同感心し合い、さらに400回記念での出席を約して散会しました。

芋煮会については、9月の三金会で復活させようということで、日程を11月2日に決め、里芋、牛肉その他必要な材料はすべて山形から取り寄せ、いつものお店の炉が切ってある板敷きの間で調理し鍋を囲みながら談笑することとしました。店の方も代替わりしているのでどうかと思いましたが、材料持込についても快く0K してもらいました。当日は14名の参加があり、故郷山形の味を堪能・満喫しました。会場は貸し切り状態となり、校歌、最上川舟歌、県民歌の合唱もあっておよそ4時間に亘る宴となりました。県民歌といえば、以前山形で行われた紅花国体の開会式で、ソプラノ歌手佐藤しのぶさんの独唱を聞いて感激したことがありました。ちなみに彼女の母上は天童出身だそうです。


次回は今年10月の第3金曜日いつもの場所で催す予定。参加希望者は細谷(℡047‐423‐6097)まで。

なお、東友会は、昭和21年4月山形中学最後の入学生で翌22年4月は六三三の学制改革により山形一高併設中学となりました。従って下級生がなく、25年4月山形東高等学校2年となって、3回卒生が下級生として入学してきました。よって、中学3年、高校3年計6年間の就学となっています。
  (細谷敏巳 記) 

我々の宝物(東三会)

>会報55号(平成19年10月)より抜粋 

松竹と雪山を友とせるものを友とす

高校を卒業して早くも50余年になる。卒業後夫々違う大学に行き、社会人になってから早々に、誰ともなく集まろうということになり、時々一緒にお酒を飲みながら夫々の業界のことや、仕事の苦労などを話し合った。それが今日まで続いている。中には小学校(国民学校)から新制中学、新制高校まで同期という者もいるが、我々の気持ちにはなんともいえぬ親密感があり、一人ひとりが人生の宝物ともいえる関係になっている。この小さな集まりは、多少変動があるが、10人前後で3ヶ月に1回程度開催し、「雲山会」という名前がつけられている。誰でも同期であれば参加できるオープンな会になっているが、何回か集まったときに、何か会の名前をつけようということになり、酔古堂剣掃にある次の言葉から命名した。即ち、「古の君子は、友なければすなはち松竹を友とし、居るに友なければすなはち雲山を友とす。余は、友なければすなはち、古の松竹を友とし、雲山を友とする者を友とす。」

皆なで作り上げる親密感という宝物

今年の5月9日に、屋形船を10人で借り切り、隅田川の舟遊びを楽しんだ。このような同期会の集まりは、当然若い人々も同じように持っていると思っていたが、最近の若い人たちは、学校を卒業してから同期で集まることはないという。全く勿体ないことだと思う。色々な理由はあるのだろうが、同期の仲間の親密感という宝物は、皆で長い年月を経て作り上げるものだけに、夫々が意識して集まることがよいのではないかと思う。仕事が忙しいということもあるだろうが、何とか時間をやりくりしてでも集まる価値は大きいと思う。要は長く続くように多少の困難は乗り切ることが大切だと考える。

先日仕事の関係で知り合った80歳を過ぎた方と食事をともにしたが、この同期会のことが話題になったとき、その方も同期会の集まりはあまり活発ではないと話されていた。その方は、戦争などの混乱した時代を過ごしたこともあり、うべなるかなと思った。全体の同期会は、毎年幹事が決められ、山形と東京で夫々開催される。今年も10月に開催するとの知らせが届いている。我々の同期会は、きわめて恵まれたものであることに感謝し、仲間の元気な顔を思い浮かべながら、都合をつけて出席したいと楽しみにしている。
 (横倉正義 記) 


ふたつの有志の会(東三会)

>会報53号(平成18年10月)より抜粋 

  わが東三会には二つの有志会がある。山形には『東三会有志の会』、東京東三会には『雲山会』があり、私は故郷にも住居がある関係で、どちらも創会時からのメンバーである。

『東三会有志の会』は10年前、榎森勘右衛門(藤八郎)君の呼びかけで始まった。"偶数月の火曜日18時に山形ワシントンホテルの三十三間堂に集まろう"が合言葉であった。会費3000円でふらりと顔を出してもOKで、20~30人の男女が飲み食いし語り合っている。二次会はとなりの「ルーブル」と決まっており、3分の1くらいが流れ、会費は3,000円である。やがて会場は七日町の「そばくい亭」に移った。現在の呼びかけ人は玉虫義孝君で、12月は同期生西田辰男君経営の七日町「辰寿司」で忘年会をやり、40人ほどが集まる。

一方の『雲山会』は、命名者でもある横倉正義君によって約30年前より始められ、奇数月が多い。おそらく150回以上開かれているのではないだろうか。会場は学士会館東大分館で、洋食を食べながら語り合う。以前は毎回一人が講師となり、自分が活躍する業界等についてレクチュアしたものだった。昨今の話題は、専ら健康、趣味、旅行、孫などであるが、今回は有力メンバーだった小粥静夫君の死に当たり、ひとしきり葬式論が交わされたのだった。

なお、横倉君に確認したところ、雲山会命名にさかのぼる昭和32年、大学卒業と同時に数人で集まる会をつくったとのことであった。
  (内田淳 記) 


東京東三会 卒業50周年の会

>会報48号(平成16年6月)より抜粋 

平成15年11月5日(水)夜、東京ドームホテルで頭書の会が開催されました。昭和28年に卒業した我々にとって、丁度卒業後満50年になります。出席者は約40名とやや低調でしたが、大変盛り上がった会でした。

思えば戦後の新しい学制改革によって制定された新制高校の1期生として山形東高校に入学しました。入学した時は旧制中学校と女学校の合併体として、現在の校舎は東校舎で男子の中に女子生徒が少し入り、第二女学校は西校舎として女子約700名に男子生徒が約100名混じるという構成になりました。私は幸い(?)西校舎で大変恵まれた学生生活を送りました。特に上級生は西校舎では女子だけで、1年生の男子生徒は大変可愛がられた思い出があります。

高校卒業後は、進学や就職で東京近辺に居を構える人も多く、その人たちで「東京東三会」(東高の第3回卒業)を作ろうという機運が高まり、毎年集まりが持たれるようになり、今年が第31回目の会合ということになります。

節目の「卒業50周年の会」は、当初は山形と東京との合同で開催しようとの動きもありましたが、平成16年には多くのメンバーが満70歳を迎えるので、合同の会はその時にということになりました。

会場は、東京ドームホテル42階の「シリウス」で、眺望絶佳、正に上質のシャンパンを見るような気分でした。大滝会長の「短め?の挨拶」と「ついでの乾杯」で始まり、終始和やかな雰囲気で進行しました。宴たけなわというところで、山形から遠路駆けつけた坂田東三会会長より挨拶と母校の近況報告があり、一同それぞれに昔の思い出に浸ったようでした。席上大滝・坂田両会長から平成16年には「古稀の会」を合同で行いたい、場所は蔵王温泉でどうかとの提案があり、満場の拍手で承認されました。

おいしい料理、その一部を紹介しますと、お刺身の盛り合わせ、サーモンのたたきと帆立貝、イかと野菓のカクテル(オリーブオイルとハープの香り)、若鶏のスモークとライス(ペーパー)のサラダ、冷製ポークサラダ、芝えびのチリソース等々、そして懐かしい仲間とくれば時の経つのも忘れてしまうほどでした。

我々の世代は、第二次世界大戦の最中に小学生(1年生の時に国民学校になりましたが)時代を過ごし、新制中学校の1年生、新制高等学校の1年生と、時代の変化の中で学生生活を過ごしたこともあり、仲間意識が大変強いように思います。また、小さいときに苦労したせいか健康に恵まれている人が多いようで、これも嬉しいことだと思います。

食事の後で、幹事よりみんなの記憶カテストと称して、「長嶋の引退した年は?」「街頭テレビの初めは何年?」「フラフープがブームになった年は?」「おしんの放送は何年か?」などのクイズが出され、これらのことが時代の椎移を思わせ、「歳をとったもんだな!」という思いを強めたようです。

古稀といえば「古来稀なり」といわれる歳になったわけですが、元気でこのように仲間と集まれることの幸せも、感謝と共に深く感じたようです。お互いに健康に留意し、毎年このように集まりたいもんだな~というのが実感だと思います。

会の終わりは恒例の校歌合唱で、会場の「シリウス」の大きなガラス窓も割れんばかりの大合唱となり、水道橋の駅にいる人が何かなと見上げているのが気になりました?

集合写真は、いつも出席して綺麗な写真を撮ってくれる同期のプロ?カメラマンが急用で欠席し、あわてた幹事がインスタントカメラを買ってきて撮影したので、見苦しいものになりましたが、この写真を見た方々からは「しみもしわも隠してくれてありがとう」とのお褒めの言葉(?〉を頂戴しました。

というわけで、50周年の会は一同の笑顔に溢れる会となり、平成16年の「古稀の会」での再会を約してお開きとなり、幹事一同の疲れも一瞬にして消え失せた楽しい会になりました。


  (横山靖男 記) 


東京「東四会」(昭和29年卒)総会

>会報43号(平成13年9月)より抜粋 

入老(じゅろう・満65歳。こんな言葉はない。造語です。)の33名が五反田ゆうポートに集まった。

桜のつぽみもほころびはじめた3月17日だった。男性23名、女性10名。「やあ」「おお」と挨拶をかわす男性は元気一杯だし、「まあ」「しばらく・・」と再会を喜ぶ女性は若々しくいよいよあでやかだ。

山形からは鈴木実、大江健両君が駆けつけ、母校東高の現況を報告してくれた。あいさつ、乾杯のあと、鈴木正五郎君の独演があった。題して「松木先生、霊界より来たりて傲を飛ばす」。なんでも咋年11月17日東京ドームホテルで行われた東京同窓会での寸劇「松本しぇんしぇい」に触発されて作った自作自演ものだそうで、おらがくにさの言葉で放たれる毒舌が、おかしくも、なつかしい。いわく、「グローバル、名詞はグローバリゼェェェション。意味は、世界のひとと時空を共有するとの認識のもとに、考え、行動すること、ほえなだ。分かりやすく言えば、ざえご太郎がざえご太郎でなくなること・・だ。わがたが、このざえご太郎!!」

突然、撤を飛ばされた一同は目をパチクリ。約20分のパフォーマンスのあとは、おおいに飲み、かつ、食いつつ、歓談。備え付けのカラオケで、宇佐美君を始めとするのど自慢が美声を競って、座を盛り上げる。そうこうするうちに時はうつり、あっという間にお開きの時間となり、一周名残を惜しみつつ散会した。


(清野 好久記) 


古稀を迎えた「古稀会」 ここ一両年の動き

>会報52号(平成18年6月)より抜粋 


東高5回卒の私達「古稀会」は卒業年が母校創立70周年に当たるという因縁由来の命名である。これまではなんとなく据わりの悪い思いをしてきたが、漸くこの年齢を迎え、名実共に符合することになった。また卒業50周年の記念すべき年でもある。昨年10月には上の山「古窯」に全国から94人集まって「古稀のお祝い」をした。

恒例の在京同期生「新年会」は1月28日に新宿御苑前の北京料理店「随園別館」に在籍108人のうち42人参加で開催した。今年の秋は本格的な「芋煮会」を「新潟県:塩沢」山奥の渓流で実施する予定だ。実は一昨年10月29~30日に同じ企画で実施予定だったが、直前の23日に「中越地震」に見舞われ、大勢の罹災者への配慮もあって中止した。2年ぶりの再挑戦である。
  (小野英樹 記) 


 “Time flies like an arrow” (東八会)

>会報55号(平成19年10月)より抜粋 

春3月今年も又“燦燦会”の季節がやってきました。平成9年20名弱でスタートして早10年、いつの間にか古希間近の高齢者同期会になりました。まだまだ元気一杯の顔・顔・顔が揃い、何時もながらの青春談議に時を忘れて満開の賑わいです。

昭和33年山東第八回卒(327名)本部山形で平成4年にスタートした同期名は「東八会」。33 年卒に因んで名づけた燦燦会はその東京支部です。関東近県を中心に以西を纏めて現在120名弱の会員。年一回3月開催を恒例としていますがここ数年は一区切りついて第二の人生を歩みだしたリタイア新顔が年々増えて50名近くになることもあります。

まだ一線の要職で活躍中も多く話題には事欠きませんが、やはり高校三年の思い出を語り合う時の目の輝きはただものではありません。来年は卒業してちょうど50年、忘れる事のないあの青春の学び舎での記憶 タタキ込まれた“Time flies like an arrow” (光陰矢の如し)が開催を重ねる毎にしみじみ実感として蘇ってきます。

来年も再来年もいつまでもいつまでもこの元気な集いが続く事を祈りながら・・・・・・。

 (平成19 年3 月10 日 有楽町プレスクラブで開催された燦燦会) 

(高橋仁之 記) 
 

同期会だより 燦々会(昭和33年卒) (東八会)

東八会関東支部 >会報51号(平成17年10月)より抜粋 

平成17年2月26日東京ステーションホテルで開催。15年8月末以来、1年半ぶりの例会でした。いまだ寒さの厳しい時期でしたが、兵庫、奈良、静岡、山形、仙台と遠い所からも出席して頂き、過去最多の48名の参加者でした。

結城君の司会で、舩山燦々会代表、長谷川平内本部代表の挨拶の後、遠方から駆けつけてくれた松田荘一郎君の乾杯、会は佳境に入りました。

新に、或いは暫く振りに出席された仲間の近況報告を聞きながら、折角の料理をも忘れ、話は尺きません。予定をオーバーして、山形の平沢君のリードで校歌とおお勝利を斉唱、武田雄彦君の閉会の辞で、楽しい会もお開きにしました。

まだまだ話を、酒をと、20数名が歳を忘れ、銀座「樽平」へと流れました。

当会は還暦を過ぎた頃から参加者が増え始め、上記の会は48名の参加。暇と元気さに恵まれた人が多く、小グループで、ゴルフ、山歩き、温泉、カラオケなどを楽しみ、最近は囲碁の会も出来たとか。

山形の本部では、毎月18日(とうはち)に例会を開いている。出席できる人が集まろうということだが、20人以上は出席する。他方面からも誰かしらが出席している。仙台支部は、年2回と言わず機会があれば集まっているらしく、それも夫婦同伴が原則。夫婦同志のつきあいが長いので、他の男性主体の集まりと違った、ほんわかとした暖かい雰囲気である。同期の三塚典子さんのご主人は同期の2回の旅行にご一緒し、今はまるで同期生の一員。先の旅行では、同期の木村君が仕事で参加出来なかったが、奥さんはご主人のかわりにお友達と一緒に参加すると言ったぐあい。

最近は、山形でも仙台でも会合があれば必ず一声かけてくれるのが有難い。





なに、ショウチュウ桜だって? 東濤会花見4月8日

>会報53号(平成18年10月)より抜粋 

幹事さんが考えに考えて決めた4月8日でしたが、今年の桜は早く、「やれやれ、3日遅れの花見か・・」と出かけましたが、それが怪我の功名となり、一段と楽しい花見になりました。

四谷に集合した一行20余名は、西念寺の服部半蔵の長い槍に感心したり、お岩稲荷を慰めたりしながら新宿御苑へ。途中、あまりにも和気あいあいの一行に、お岩様がやきもちを焼いたのか俄かの雨がありましたが、そのあとはきれいな花見日和。ソメイヨシノは終わってしまいましたが、コバルトブルーの空に流れるしだれ桜や三分咲きの黄色いウコン桜など、さまざまな桜の風情を楽しむことができました。

「会長、ショウチュウ桜がありますよ」
「どれどれ、ん、チョウシュウ桜…」
と、突っ込んだり突っ込まれたり一。長州桜はほんとうに焼酎を一杯ひっかけたようなピンクの八重桜でした。


新宿御苑を後にして国立能楽堂のレストランへ。食べきれない料理を前にひとしきり話が弾みます。もちろん、ビールもショウチュウも最高。帰りは、月明かりの桜に、俳句のひとつもひねりたくなるような春の宵(春の酔?)でした。ウイッ。
(蔵元和子記) 

 「東濤会」と「東京東濤会」

 >会報47号(平成15年10月)より抜粋 

「東濤会」は、第10回(昭和35年)の卒業です。振り返れば早や43年を過ぎて、当初325名だった会員が残念ながら295名(物故者30名〉となりました。会長は佐藤章夫君(山形)です。

一方「東京東濤会」は、主に首都圏に勤務ないしは居住している東濤会会員の集まりですが、きっかけは、昭和51年に山口鐵太郎君ほか有志の方々の呼びかけで湯島の「満川」に集まった17名の会合でした。以来、それぞれの仲間同士で集まっていた会員が「東濤会関東支部」の名のもとに次第に集まるようになり、今では「東京東濤会」と改称し、会員数は120名余になっております。

そのような経緯からも明らかなように、「東濤会」が同窓会傘下の正式な団体であるのに対し「東京東濤会」は全く任意の会であり、会則もありません。

会の運営の基本となる「名簿の作成と消息」は、当初丸子勝基君が事務局を担当し、高木宗次郎君、さらに異動を機に奥田健造君へと引き継がれております。

会の行事としては、毎年12月第1土曜日・午後4時からの忘年会、10月初旬の芋煮会(野田市清水公園、参加50名位。今年は10月4日、会員の家族・同窓生有志・友人知人・お世話になっている居酒屋の方々などに案内)、暑気払いの会など、とかく飲み会に力点が置かれがちです。

もっとアカデミックな会も開こうと、丸子勝基君や鹿野道彦君の提案から「東京東濤会セミナー」を時々開催することとなり、回数も26回ほどになりました。(もっとも、セミナーの後は必ず懇親会になります。)講師は各方面に展開している会員の中から、順次「内部調達」(謝礼は勿論なし)をしておりましたが、時には母校の恩師を講師にお招きしたり、各界でご活躍の先輩後輩の方々にお願いするなど、次第に環を広げてまいりました。母校の卒業生は本当に人材豊富であると思います。

また、全体行事のほかに、囲碁の会・山歩きの会など、有志による様々な集まりも時々企画されてきましたが、還暦も過ぎて新しい人生のステージに移行する会員も増えてくることを考えると、長年の活動を通して出来てきたこのような利害のない交流の基盤が、これからますます役立っていくのではないかと期待しております。

いずれにせよ、このように続けてこられたのも、東京東濤会会員相互の会を守り立てようという気配り、会員それぞれの参加意識と連帯感のお陰とつくづく感謝している次第です。
  (畠山千蔭記) 


東士会蕎麦食う会10周年記念

>会報52号(平成18年6月)より抜粋


 "稲作社会"の日本では、還暦を境に学校時代の同期会の会合が増える。しかし当東士会は10年前から「蕎麦食う会」と称する会合を年に4回持つ。呼び掛け人兼幹事役は会長で弁護士の岡田康男君。ニキビヅラの高校時代から彼の"気配り"は尋常ではなかった。彼を補佐するメンバーも多士済々。豊富な人材に加え、地元山形で蕎麦店を経営する庄司武彦君が東京に出店(虎ノ門三井ビルー階"出羽香庵")したことも幸いした。今年は発足10年を記念し、正月気分の残る1月20日に例会を開いた。在京メンバーに加え山形からも駆けつけ、参加者はこれまで最も多い36人を数えた。同期会の良さは無礼講。高齢化社会にありがちな嫉妬という暗い情念は無い。ともかく良く"食べ・飲み・そして喋る"。約束の2時間は瞬く間に過ぎ去った。東士会は今年あと3回会合を持つ。良き友と胸襟を開いて語り合い好みの肴で浅酌低吟。自足と平安を求めて、メンバーはこの会合を心待ちにしている。
(関根昭義 記)

雪の日に東京三山会発足

>会報56号(平成20年5月)より抜粋

2月9日、雪模様の肌寒い東京(都心でも降雪あり)で、青山にある青学会館の一室は私たちの談笑で快い熱気に包まれていた。山形東高を昭和38年に卒業した三山会で、首都圏在住者を中心に「東京三山会」を立ち上げることとなり、地元・山形のメンバーも駆け付けてくれて、大掛かりな同期会を開いたのである。

参加人数が51人(女性2人)。このうち、15人が遠く山形・宮城県からの出席者だ。卒業してから45年が立つ。年齢も63歳を迎えた。仕事を続けている人もいれば、離れた人もいる。だが、かつての現役バリバリの頃のように、相手が所属する会社や肩書きなどにこだわることは一切なくなった。「本掛還り」である還暦の60歳を過ぎると、元に戻って素直に人と接することができる。卒業式以来、45年ぶりに再会した級友もいて、話が弾み過ぎて、ごちそうの方にはあまり手が伸びない。

同期会は、山東の校歌斉唱から始まった(私は3番冒頭の「あゝわが紅顔未来の光」しか記憶していなかった)。物故者の16人の友人へ黙祷。本家の三山会会長の細谷伸夫君が「現在の山形東の生徒は、男子と女子の数がほぼ半々」と紹介すると、ほとんどが男子生徒だった時代の私たちから思わず「ホー」の声が上がった。三山会は、山形の高橋優之助君手作りの携帯ストラップを記念品として贈呈してくれた。三山会製作の映像「わが母校」を鑑賞し、出席者が近況報告を行った。盛り上がって会合は寒夜の中、二次会、三次会、四次会まで続いた。

東京三山会は、千葉市の髙山眞一君の献身的な努力で実現した。昨秋から活動を開始、首都圏在住者だけでなく東北、北海道、近畿などに住む同期生を含めた詳細な三山会名簿を作成して呼び掛けてくれた。東京三山会の会長に就任するのは当然だ。本当に感謝する。5年後に、卒後50周年の大同期会を地元山形で開催することを約束して、同期生たちは帰路についた。

(高橋 豊 記)


伊藤健一郎君を偲んで(三山会)

>会報55号(平成19年10月)より抜粋 

 去る3月12日に、惜しまれつつ亡くなられた同級生の伊藤健一郎君を偲ぶ会が、5月11日に山形市で行われました。健一郎君は、高校時代ハンドボール部合宿で同じ釜の飯を食った思い出多い仲間です。当時のハンドボール部は正式の部ではなく、その時々の馬力のある連中が集まってチームをつくってインターハイや国体の県予選に出場しており、どちらかと言うと柄の悪い連中の集まりでした。(1、2 年の時、彼は山岳部に、小生は剣道部に所属しておりました。)

 彼は右のウィング、小生は左のウィングで大会に参加しましたが、寒河江高校との決勝戦は生憎の雨となり、即席チームでスパイクもなかったわれわれは、滑り止めのために縄を巻いて走りましたが、水を吸った縄は重く、まともに走ることが出来ず、敗れてしまいました。(当時のハンドボールは、屋外でサッカーと同じコートを使用しておりました。)

 大学で選んだスポーツは二人とも日本拳法でした。現役で立教に入学し拳法をやり始めた健一郎君が夏休みに帰ってきたとき、浪人中の私は、関東学生拳法リーグの一部校でレギュラーになれそうなとこはどこかと彼に相談し、翌年青学を選び、入学して迷わず拳法部に入部しました。

 二人とも4年の時には主将として活躍できたのは、忘れることの出来ない思い出ですが、残念ながらお互いに一部と二部に分かれていたために、一度も対戦したことがなかったのが今でも心残りです。

 偲ぶ会は、地元山形の三山会を守り、尽力している高橋優之助君と秋葉正彦君が世話人として開催しました。葬儀に参列した方や香典を送ってくれた方29名に連絡したそうですが、当日の出席は、14名でした。東京三山会からは鈴木勤君と小生の二人です。少ない人数でしたが、皆それぞれに健一郎君に思いを寄せる方たちばかりですので、大いに盛り上がったのはいうまでもありません。彼の遺影に献杯し思い出に話がはずみました。(写真。菅野宏昭君は遅れたため写っておりません。)


 車で行くことの多い山形ですが、今回は仙山線経由でのんびりと行きました。数十年ぶりの仙山線は、懐かしい駅名や景色に田舎を感じましたし、駅のホームから見る山寺は、近くで見るのとは違う良さがありました。また、蕎麦好きの私ですが、山形に着いてすぐと帰る前の二度も、東士会の庄司武彦先輩の店・庄司屋の蕎麦を食べましたし、いつもお酒を取り寄せている山家町の秀鳳酒造に行き、蔵を見学させてもらって利き酒もさせてもらうなど、健一郎君にいただいた思い出の旅となりました。筆者は写真左端。あのころのリーゼントカットがつるつるになりました。  
 (高山眞一記) 


第二の青春を楽しんで(笑龍会)

>会報54号(平成19年6月)より抜粋

高校卒業時は、東京オリンピックが開催され、授業中にオリンピック放送をこっそり聞く時代であった。そのときの高校生がいまや60歳、還暦を迎えた多くの仲間が第二の人生を送っている。

山東40年卒の『笑龍会』の由来は、3学年当時の担任の先生方のお名前の頭文字を並べたもの。したがって、担任の先生方のお名前は一生忘れられないものになっている。

東京支部の会員は、時々集まっては飲み会をしている。会員の話題は、それぞれの仕事に関することから、最近は、ご多分にもれず「健康」、「子供より孫の話」へと変わりっっあるが、最後は懐かしい高校時代の話になってゆく。そのときは青春時代に戻ったような気分になる。

飲食だけでなく、教養を高める小旅行なども行っている。丸山陽彦君の案内による日光東照宮の建築勉強会(=写真。前列右端が筆者)では、通常は見学できない修理の現場などにも入ることができたり、千代由利さんの案内で著名な図書館を見学できたりした。いつも会員の意向を汲んで企画を策定してくれる佐藤和美君を軸として、今後も第二の青春を楽しんでゆく。


   (澤 十三夫 記) 

 「竹馬会」(東高16回)有志集会

>会報35号(平成10年6月)より抜粋

 3月27日、竹馬会の東京近隣在住者有志21名による懇親会が新橋の「柏園」において開かれた。

男子参加者は、石川晋、板坦政昭、井上勝之助、岡田益、佐藤光良、庄司清志、須賀井晴之、高野和男、知徳正明、上屋茂、坪沼敬介、寺嶋義美、富樫幸雄、長井洋一、橋本一比己、舟山信義、松田宏の17名。全員小太りし、ある者は前頭部を光り輝かせ頭頂部の毛髪を薄くし、ある者は白髪またはごま塩頭となり、32年前の紅顔の美少年の面影まるで無し。,,

女子の参加者は櫻井(石山)真理子r、喜多(伊藤)蓉子、天野(菅原)やよい、横尾直子、小嶋(米村)史子の5名、5名共に高校時代の美貌と知性を残した女盛りである。男女ともに、32年の風雪に鍛えられることにより身に付いた貫禄と落ち着きを持った紳士淑女に成長している。

関東地区には竹馬会メンバー371名のうち約110名が在住している。今回の懇親会は、竹馬会東京支部(仮称)の組織化のための準備会として計画されたもので、秋には第1回会合開催を合意し、世話役として、石川、喜多、横尾の三氏を選任した。

今回は人事異動の始まる前に懇親会を実現させるためロコミの連絡で、連絡が充分行き届かなかった。

何も聞かされなかったメンバーにはお詫び申し上げたい。また忙しい時期に幹事役を務めてくれた佐藤光良君、青山永策君の両氏にお礼申しあげたい。卒業以来の再会となった参加者も多く、思い山話と情報交換に我を忘れ、4時聞の懇親会は瞬く間に終わり、気が付けば11時であった。最後に応援歌”おお勝利”を全員で高らかに合唱し、秋の東京竹馬会発足会での再会を約して散会した。


(井上 勝之助記)

2008年12月12日金曜日

同期会だより 六七会(昭和42年卒)

>会報51号(平成17年10月)より抜粋

六七会は、毎年6月7日前後、開かれています。六七会の会員は、東高を1967年に卒業しました。即ち、6×7=42、昭和42年度卒業生です。「東京六七会」で検索し、ホームページを開きますと、活動状況の詳細が懇切丁寧に記録されております。パソー」ンに会員登録しますと、毎年の六七会の案内が届きます。今年も6月7日が開催日でした。万一、案内が行き届かない方は、六七会の幹事や、参加の誰彼に連絡してみて下さい。

今年は、秋葉原のビアレストランが会場でした。21名が賑やかに集まりました。もう、ずいぶん大昔から、集まっています。何故か仲が良い学年とウワサされています。実際、集まると、老後は六七会村を作り、一緒に暮らそうとか話題に出たりしています。

今回は、はじめての参加予定の方が、パソコンに出欠の書き込みをしてくださって、消息を知りました。また、10年ぶりに、神戸からの参加者もありました。

話題は、各家庭のドラマあり「親の介護や、子供のこと、自分の再就職など」喧々諤々、話題は尽きません。お悩み相談、付和雷同、叱咤激励、近況報告等々。「大いに語らい盛り上がりました。」

まさかの坂に遭遇する年齢にもなり、貫禄十分、白髪増加。禿げます人も励まされみんなぐ渡れば怖くない。それなりの馬齢重ねて、独生独死の世の中なれど、一期一会のひと時、友遠方よりきたるあり。旧交を温め、カシマシク語り合うひと時では、ありました。

来年も、また、ひと月早く六七会の七夕は巡ってきます。チームワークの良さと人の和で、元気をもらって散会します。口には出さないけど、この場を借りて、世話役の3人の幹事(青柳君、谷口君、村上君)の抜群の統率力手腕と才能に感謝。(これぐらい書かないと報われない)


なお、文面は、東京六七会のホームページを参考とし「 」の文章他抜粋拝借させていただきました。
(六七会会員オペラ座の怪人)

食べるより話に夢中(東哉会)

>会報53号(平成18年10月)より抜粋


 平成17年12月2日午後6時半より、アルカディア市ヶ谷において、東京東哉会懇親会を開催しました。年の暮れも迫るなか、21名出席。小部屋を貸し切り、立食形式で始めました。

 久々の再会のためか、いつのまにやら部屋の真ん中にテーブル・イスを集め、話に夢中。料埋にはあまり手をつけず、もっぱら酒ばかり。相変わらずの飲んべえ達に、やっぱり山形出身だなあ、と妙に感心しました(飲み放題にして大正解)。定年間近な男性陣が黄昏れてきているのに比べ、なんと女性陣の活き活きとして若々しいこと。とても孫がいるようには見えません(ほめておかないと後が怖いものですから)。和気あいあいのなか、平成18年秋に再会することを誓い、午後9時頃解散しました。

 来年は、当会が山東東京同窓会懇親会の主幹事となります。どうぞみなさま、ご協力の程よろしくお願い申しあげます。
(前田好二 記)

青春を語り合いましょう・・・東京同窓会懇親会に向けて・・・(鵬雲会)

>会報57号(平成20年10月)より抜粋
団塊の世代の後を受け
 
羽前の三山に送られて学窓を巣立ち、はや40 年近い年月が経ちました。安田講堂の攻防をニュースで見ながら迎えた大学受験、「夜明けのスキャット」「赤頭巾ちゃん気をつけて」等々わが学年を象徴する事柄には事欠きませんが、団塊世代の先輩達に導かれながら、社会経済の大変動を何とか乗り越えてまいりました。国のため、会社のため、そして家族のため一所懸命頑張っているうちに、頭はすっかり真っ白になり、世は少子高齢化の真っ只中。海外で活躍していた仲間も漸く帰国し始め、会社人生も第2のステージに到達したようです。

会議を重ね演出に工夫

此の度、東哉会の先輩から秋の懇親会の幹事を引継ぎ、既に3回の準備会を重ねてきています。東音会の方々には引き続き素敵な歌声を披露して頂きたくお願いするとともに、メンバーの縁者の若いミュージシャンにも登場してもらうべく準備を進めています。政治、経済情勢いずれも不透明で何かと気ぜわしい秋になるかと思いますが、今までの来し方を振り返りながら、わが国と郷土のこれから、そしていまや遠くなった過ぎ去りし母校の青春を大いに語り合っていただけるよう準備を進めています。



  懇親会実行委員会(山東19回・鵬雲会)

来年の当番幹事、翠巒会です

>会報57号(平成20年10月)より抜粋

東京翠巒会(すいらんかい)は多彩な顔ぶれである。ギタリストもいれば居酒屋主人もいる。そんな同期生が久しぶりに再会すると、「太たんねが?」「んだずー。おめえも髪の毛ないんだどれはぁ」と山形弁で盛り上がる。 


上の写真は、今年1月25 日、第9回東京翠巒会の記念写真だ。会場は明治記念館、参加者は24 名。残念だがこの写真には、高嶋宏君(ジャズギタリストで活躍中)は仕事で中座したため写っていない。参加者もこのところ固定気味。とは言え30 数年ぶりという同期生もひょいと現れる。そんな歴史の闇?を超えた再会も、東京同期会ならではの楽しみだ。

ところで、翠巒会の「翠巒」とは、母校から眺めたみどりの山並である。千歳山、そして蔵王連峰。同期生は皆、記憶の原風景に同じ「翠巒」を共有している。平成7年11 月、我が翠巒会がジュニア幹事を勤めた「東京同窓会」の終了後に、今は亡き吉村和彦君の肝煎りで、初めての同期会が御茶ノ水で開かれた。あれから13 年。坂の上には、いつのまにか還暦の峠も見えてきた。そして時は巡り、来年は我々翠巒会が「東京同窓会」の当番幹事を引き受ける。同期生がよく協力し合って、和やかな親睦の会にしたいと思う。

皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
遠藤 雅晴(山東20 回)

故郷への変わらぬ思い(翠巒会)

>会報44号(平成14年6月)より抜粋

私たちの期は、母校を卒業して満31年が経過した。しかし当時の級友達と再会し、杯を重ねるうちに時間はあっという問に逆戻りしてしまう。そんな束の間の異空間を求めて、翠轡会東京同期会の回を重ねている。

私たちの同期生のうち約90名が関東近辺に在住しており、高校3年時のクラスが輪番で幹事役を務める約束事になっている。開催日や場所、スタイルなどは幹事に一任されており、これまでは1~2年に一回のペースが保たれている。昨年は3年時の2組が幹事役となり、6月30日に虎ノ門パストラルで開催された。参加者は18名といつもよりやや少な目ではあったが、2名の方が初めて参加された。また、参加者の…人が連絡の取れなかった友人の携帯を呼んだところ、会場から遠くない場所で飲んでいるとのことで、ほどなく駆けつけてくれるという嬉しいハプニングもうまれた。同期の卒業とは言え6クラスで三百数十名にもなるので、在学中は全く話をしたことがない間柄も希ではない。初めての参加の場合は、そのあたりの記憶を呼び起こす会話から同期会がスタートするのが常である。しかし.必ず共通の話題や友人が存在するので、それはほんの短時間のことであり、すぐにうち解けた会話が展開することになる。仕事のこと、家族のこと、最近のトピックと会話の内容は様々であるが、宴が進むにつれて故郷での思い出が話題の中心になってくる。それは母校での生活や恩師、友人達との思い出にとどまらず、中学や小学校時代の淡い恋心にまで及ぶこともある。そして一次会から二次会へと席は移るが、参加者の数が減ることはない。

私事で恐縮であるが、去年春に27年間のサラリーマン生活に終止符を打ち、7月初めに郷里の上山に戻ってきた。同期会では友人達から多くの励ましの言葉をいただいたが、その端々に故郷への思いが感じられたのは、私の感傷のせいばかりではないと思っている。


(小川 幹雄記)

渋谷先生を囲んで(互一会)

>会報53号(平成18年10月)より抜粋

互一会東京支部会では毎年3月末に渋谷恒雄先生をお迎えして同期会を行っています。今年も12名が出席し夜遅くまで懇親を深めました。先生は70歳を超えていらっしゃいますが、ますますお元気で、毎年英語教育についてのお話をお伺いし、パワーをいただいています。


 会員はさまざまな業種に就いており個性も豊かで、50代を迎える脂の乗り切った世代です。来年からは3月の最終土曜日に開催する方針です。またこの他にも同期生の転勤などのイベント時に、臨時同期会を開催して交友を保っています。
 
最近では元会員の齋藤弘君が山形県知事に就任したのを機に、互一会山形本部とも連絡を取り合い、活動の連携を図っています。山形からの出張者や転勤者の情報があれば是非ご連絡ください。ミニ同期会を企画します。

幹事:金井浩一郎
Eメール:cani@kajima.comです。
(金井浩一郎 記)

底抜けに~盛り上がって(東紋会)

>会報56号(平成20年5月)より抜粋

懐かしい顔がまた揃った。今回は相馬君のアレンジで汐留シティセンターのエスニックレストランで新年会が催され10名が集った。昨年は転勤先から東京に戻った相馬君の歓迎会も行われている。乾杯早々、菅原君のビールジョッキの底が抜けるというハプニングがあったが、それから大いに会話が盛り上がっていった。会話の中心はやはり先生、同窓生の話題だ。何年生の時はおまえと同じクラスで誰先生だった、あのクラスは落ちこぼれのクラス(笑い)だったなど楽しい話題が多い中、あいつが昨年亡くなったという話題や家庭での悩み事も出て皆真剣に受け止めていた。途中、武田君から59歳の時には東紋会が同窓懇親会の主幹事となるとの報告があり、前回のジュニア幹事の時は盛り上がったとまた酒を酌み交わし、次も成功させようと誓い合った。

1次会が盛り上がった後、丹君仕切により銀座の2次会に場所を移した。そこで榊原君や日下部君らと合流することとなり、この日榊原君は上海出張後に駆けつけてくれ、更に懐かしい仲間が加わり新年会はどんどん盛り上がることになった。2次会ではカラオケにより、皆が持ち歌を披露してくれ、親交を一層深めていった。曲はやはり学生時代の曲が多いが、歌謡曲やフォークだけで無く、ポップス、ロックなど多様な歌声が店内に響き渡った。賑やかな雰囲気の中、次は花見で集まろうと気勢を上げた東紋会メンバーであった。

(西塔隆二記)

四半世紀を超えて しっぽり忘年会at Onihei,Ginza (継世会)

>会報56号(平成20年5月)より抜粋

  私にとっては卒業して以来25 年間も会っていないみんなとの再会です。忘年会とクリスマスシーズンのにぎやかな雰囲気の中、楽しみ半分不安半分の微妙な気持ちでお店に向かいました。
 2007年12月18日、私たち継世会東京支部(?)は銀座で忘年会を開催しました。参加者は7人とささやかなものでしたが、継世会は40代のまさに働き盛り、子供は中学生あたり。仕事に教育に忙しい年ごろですのでやむなしでしょう。(7人は暇とは言っていません)
 お店に入るなり「こっち!」の声がかかり、その後、授業や部活、お世話になった先生の話といった思い出話から近況報告まで、長い間会ってなかったのが嘘のように話が弾みます。
 おそらく人生の中で一番多感であったろう時期に一緒に過ごした仲間との思い出と友情は、いつまでも消えないんだなということを実感した幸せなひと時でした。
 のんべの私としては(銀座になんかまず出てこないし)もうチョット飲みたかったけど、それはもっと大勢の継世会のみんなとの楽しみとして、とっておくことにします。
 

(鈴木都志充 記)

時空を超えて響け心のハーモニー! (東京東音会)

>会報53号(平成18年10月)より抜粋

同窓会懇親会を豊かな音楽で演出してくれる「東音会」。定期的な演奏会など、活発な活動を続けています。近々10周年を迎えるという東京東音会のこれまでの活動や近況などを、同会の黒田さんにリポートしてもらいました。


 結成10年、先輩後輩の絆

 毎月第2・第4日曜目の午後1時、所定の練習会場に30人ほどのメンバーが集まる。まずは団長・長谷川邦夫氏(山東17回卒)のリードで、ストレッチと基本的な発声練習。少々疲労を感じる年齢のためか、準備運動はこの疲れをほぐし、全身に心地よさを伝えてくれる。

  東京東音会合唱団は東高8回卒~22回卒の卒業生と我らが友人とで構成されている。練習は常任指揮者・清野和彦氏(山東13回卒)の指揮のもと、午後5時まで続く。並び方は女声が前列、男声はその後ろ。混声合唱では各パート横並びが一般的だが、東高当時の並び方が自然に身についてしまった。当時は男声が多かったためであるが、今は女声の方が多いのに依然として当時の形である。慣れた形でないと歌いにくく落ち着かない。練習が終わればいつも駅近くの居酒屋に寄りビールで喉を潤し、雑談は絶えない。合唱団結成から9年、これ以前の活動を含めると早10年を越す年月が経過した。

  このように高校時代の先輩・後輩を軸に活動を続けている合唱団はそう多くはないものと思う。

阿部先生の情熱が原動力

 団員は阿部昌司先生の薫陶をえた者たちと先生の合唱づくりに感動して入団した方々である。これまで活動してこれたのは、団員の絆もさることながら、恩師であり永久名誉指揮者である先生の合唱への情熱抜きには考えられない。先生は、東京藝術大学声楽科委託第1期生修了とともに山形大学教育学部を卒業され、谷地高校を経て昭和32年に山東に赴任。当時の渡里校長先生から「山東の音楽教育・情操教育に頑張ってください」という激励を頂いたとお聞きしている。先生は山東に10年勤められた。その後山形西高校に異動。西高音楽部の全国優勝、朝日コンクール10回・NHKコンクール7回の偉業を達成された。平成2年に定年ご退職後、山形女子短大教授をされ、文部大臣教育功労者賞、齋藤茂吉文化賞などを受賞されている。

やったぜ!全国優勝の感激

 旧制山形中学にピアノが購入されたのが昭和6年、当時まだ音楽専用の教室はなかった。戦後まもなく、柔道場が図書室になり、その一部がようやく音楽室となった。

  東高音楽部部員にとって、音楽室は古くても窓ガラスが明るい親しみを感じる空間であった。この音楽室が旧物理室に移る昭和40年代前半までの部員は隣の柔道場や廊下を隔てた剣道場の稽古の響きとともに練習した。

 当時の音楽部の1年間を振り返れば、春は新入生歓迎サイクリングで楯岡の東沢公園まで出かけた。随分と重い自転車を漕いだような気がする。夏休みには1週間ほどの合宿。合宿地ははじめ立谷沢・蚕桑・志津、その後は肘折温泉の小さな小学校をお借りして、熱気に満ちた集中練習を経験した。秋はコンクール。毎年東北大会に出場、朝日新聞社主催のコンクールでは宮城一女高を超えられない悔しさを噛み締めた。しかし、そのなかから昭和36年NHKの全国学校音楽コンクールで全国優勝、そして遂に昭和41年朝日コンクール全国大会出場を達成することができたのである。

 また、各年度の集大成は定期演奏会である。山形市中央公民館や山形県民会館を会場に、当時の新しい曲や難しい曲に取組み、いつも満席であった。阿部先生の指導には持ち前の美声と歌唱力をもってぐんぐんと引きつけ、未熟な我々の力を表に引き出す迫力があった。心から歌わせていただいた。これは今も先生の指導の絶大な魅力なのである。冬には『シェーン』(昭和32年度~41年度)という部誌に思い思いの文章を載せて発行した。そして、ストーブ談義…。

これからも継続を期して

 音楽部OB・OGからなる東音会が昭和34年に結成され、昭和19年から本校の音楽を担当された工藤八郎先生(山中43回卒)が初代会長になられた。山中・山東同窓会文化部連絡会の構成団体であり、演奏活動や音楽部の後援に取り組んでいる。現在の会長は千葉幸悦氏(山東9回卒)である。

 東京東音会合唱団は東京東音会【会長:渋谷宏氏(山東9回卒)】を母体に平成9年5月に結成された。これまでの主な活動としては、

☆ 平成11年10月30日、東京文化会館大ホールにて「阿部昌司先生古稀記念演奏会 -合唱の心と響き-」を嚶鳴女声合唱団(山形西高音楽部OG)等とともに開催。
☆ 平成13年2月25日、カザルスホールにて第1回定期演奏会。
☆ 平成15年4月27日、東京文化会館小ホールにて第2回定期演奏会。
☆ 平成17年4月17日、第一生命ホールにて第3回定期演奏会。
☆ 平成10年より、「ゆうぽうと」で毎年開かれる「東京都合唱祭」に9年連続出場。

 また、同窓会総会での演奏のほか、芋煮会、史跡見学会などを行っている。現在、団員は約40名。来年5月13日には、第4回定期演奏会を阿部先生の喜寿のお祝いと団創設10周年を記念して開催する。同窓会の皆様にはこれまでのご高配に感謝申し上げるとともに、今後ともご支援を賜りたくお願い申し上げる次第である。

東京東音会合唱団 黒田比佐雄(山東13回)

入会しませんか  囲碁同好会「山碁会」

>会報52号(平成18年6月)より抜粋

 東京同窓会の囲碁同好の士が集まって出来たクラブ「山碁会」も発足以来ほぼ10年、クラブ開催も100回を越えました。この間大変活発な対局が行われています。メンバーは現在23名で上級者から中・初級まで多士済々、東高3回卒~12回卒の方々です。山碁会は、毎月第四金曜日13時から東京駅八重洲口にある囲碁クラブ「いずみ囲碁ジャパン」で開催しています。また、メンバーの懇親を深めるため1~2泊の囲碁会なども行っています。昨年は12月に伊豆高原で一泊の囲碁対局を行い好評でした。本年も計画しています。

 囲碁は脳を活性化しますし、ボケ防止の役に立つともいわれています。囲碁に興味のある方は是非当山碁会に入会されますことをお勧めします。大歓迎致します。ご希望の方は世話人小野英樹(東高5回・古稀会) TEL. 0476-42-3626 までご一報ください。

一日総合大学に参画(東京法曹会)

>会報52号(平成18年6月)より抜粋

先輩と直に接触に意義

 当会は、2004年の秋、東京同窓会総会で承認されたばかりです。親睦を深めるとともに母校の後輩を啓発するなどのお役に立ちたいというのが設立趣旨です。

 2005年10月5日、私たち弁護士(当会の鈴木正貢会長、岡田康男幹事長ほか、後藤邦春(元判事)、鈴木政俊および筆者。村上康聡検事は公務により欠席。)5人は、佐藤敏彦前校長、伊藤和夫現校長のお計らいあって、一日総合大学に参加しました。

  この目的は、「学問領域の選択が受験偏差値のみに頼るものではなく、ライフワークを見据えたものとなるよう先人に直接触れる機会を設ける」にあり、カリキュラムのひとつ。1,2年生を対象に、午前中には進路講演会、午後には興味ある分野を選択させてパネル形式で質疑応答するものです。

分科会では活発な質疑

 午前は、当会会長が「安達峰一郎先生について~元国際司法裁判所所長~世界の良心と称賛された山形の偉人」と題して、山辺の生んだ国際人の生い立ちから業績などを語りました。会長は、いわゆる国際(渉外)弁護士ですが、傍ら中央大学、横浜国大の法科大学院で教鞭をとっており、噛み砕くように講演しました。

 午後は、法律実務家分科会としてひとつの教室を頂き、法科大学院のあり方、様々な法曹への道(各人の経歴)、日常の仕事ぶりなど活発に質疑応答しました。「山東通信」に掲載された2年生の感想によると「今回は5人の弁護士の方々がいらっしゃったけれど、みんな違う個性、価値観の方だと思った。法律家とは決して六法全書丸暗記ではなく、それを自分なりに解釈して用いることが大切だとお聞きした…高校時代から法曹界を志していたわけではなく、また、大学卒業後にすぐ司法試験を受けるわけでもなく、様々な職業、人生経験を経て、法律関係の仕事が自分に一番適しているんだと実感したという先輩もいた…人生って難しいと思った。」

  私たちの活動が一日総合大学の目的に合致し、また生徒たちの将来に一石を投じることができたとすれば望外の喜びです。

 最後に、私たちの訪問に際して、一日総合大学の前夜、母校から校長、教頭、進路指導担当の各先生方、山形県弁護士会から細谷伸夫会長(当時)、濱田敏、柿崎喜世樹、倉岡憲雄の各先生方、さらには齋藤弘県知事までおいでになり歓迎の宴を開催して頂き、同窓の絆に感激しました。

山中・山東東京法曹会 共一会 松田純一(山東29回)

「関東支部」が発足(山岳部OB会関東支部)

>会報53号(平成18年10月)より抜粋

 山岳部OB会では、山形地区の会員を中心に長年にわたり、春は『筍を食う会』、秋には『茸を食う会』を開催し、会員の交流を図っている。この、「~を食う会」を、関東地区の会員を集め一昨年と昨年の秋に東京で行い、久し振りで旧交を温めた。このなかで、OB会関東支部をつくろうとの話が持ち上がり、4月7日、山岳部OB会関東支部が発足した。初代の支部長には藤木吉信さん(山東4回)が選出された。

 関東地区の約80名のOBのうち、50名の会員に案内状が発送され、33名の方から返事をいただき、関心の高さを実感会は、山形からOB会会長の矢野満さん(山東6回)ほか2名の参加を得て17名が出席し、差し入れのお酒を堪能しながら、南米パタゴニア山挑戦の話で大いに盛り上がった。

 当支部に関するお問い合わせは、柴崎昌久まで。
 (TEL:03-3385-5917,E-mail:yshibasaki@nifty.com)
-山岳部OB会- 柴崎昌久(山東15回)

2008年12月11日木曜日

田苗綾子氏(東三会)、医学書が世界的に高い評価を受ける

田苗綾子氏(東三会)が本年2月に出版された医学書が世界的に高い評価を受けたとのことです。詳細は次の会報で掲載予定ですが、ご本人からのレターを速報としてご紹介します。(管理人)
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 私(田苗)が中心として編・著者を務めた「専門医による新小児内分泌疾患の治療」が、今回、韓国語に全訳され、韓国でも出版されることになりました。米国からも、長年の業績が評価され、TANAE,AYAKOのBiographyがWho's Who in the World(2009)に紹介されます。

 世界の215ヶ国から50,000人が選ばれる、valuable accomplishmentに対して与えられる記念品みたいな人名辞典2009年版です。女性では少なく、4・5年前に、東大の物理学教授:猿橋教授(初代、女性物理学者学会会長)が紹介されたと言われております。
 
 どうして私が選ばれたのかは分かりません。医学系のミシュランのようなものです。突然、Marquis Who'sWho社から、
   Congratuation!
     Your biography has been selected for publication!
という手紙が舞い込んで、驚きと大変な喜びでした。

 日本語(大部分、少数は英文)で書いた約35年間で130ほどの医学論文と、その集大成とも言える「専門医のよる小児内分泌の治療」が韓国でも出版されることがインパクトになったこと、米国ではオリジナリティの高い論文は英文に訳されて、米国のmedical index に掲載されるので、女性でも公平に取り扱ってもらえたということのようです。
    小児科医師 田苗綾子(東三会:東高3回(昭和28年卒))

2008年12月10日水曜日

東京同窓会ブログ(投稿用)を開設しました

 このたび山形中学・東高東京同窓会の投稿用ブログを開設しました。近況報告、イベント案内、新刊紹介など会員の皆さまからの投稿を紹介していきます。
 投稿掲載ご希望の方は、管理者admin.uzen33@gmail.com までご連絡下さい。また東京同窓会のホームページもご利用下さい。→ http://www.uzen33.net/